昭和40年05月17日 朝の御理解



 これは、高橋正雄という、先生、現在本部の教官をなさっておられる方のお言葉です。お手紙の一節に、「ものはみな、関係において存在するのであり、ことは全て関係によって展開するのである」これは、お手紙の初めに書かれたお言葉です。ね。「物は皆、関係において存在するのであり、事は皆関係において展開するのである」と、大変難しい哲学的な言葉ですから、私共にはよく分かりません。分かりませんけれども、おぼろげながら、分からせてことなんです。それを私こういう風に感じるのです。
 私は、大体犬とか、猫とかっていうのは、嫌いなんです。子供の時から嫌いなんです。特にもう猫なんか、もう側によってきたらけたくろごたるぐらいに、ほどに嫌いなんです。ね。ところがです、最近その、蹴たくりたくなるごたる猫が、だんだん、可愛くなってきたという事実があることです。もう、それはそれはここにもうそれこそ、そぞこはびこるでもう、ねずみが沢山おるんですね。
 私はいっぺん夜中に御祈念をさせて頂いてもらってから、ふっと休もうと思って、からその、炊事場にいったんですよ。ところがもう、それこそ、おるどころじゃないけれども、20匹ぐらいの大きなねずみがあそこによってきているんです。もう、私は恐いと思いましたですね。夜中ですもん。もう何十匹というねずみがですね、あの狭い炊事場に集まってきてから、その、いたずらしておってるのですね。
 ご神前をあらす、神饌室をあらす、もう本当にまあ困っておった所にあの、もう、一ヶ月以上にもなりますでしょうか、あの、どこからともなしにやってきた猫なんです。現在椛目におります猫は。もう片一方の足をこう引きずってきて、どこかその、怪我しておるわけなんですね。もう、真っ黒に汚れてですね、そしてその、足を引きずっておる猫なんです。ところがそれがとにかく、ねずみ取りの名人なんですね。
 日に二匹も三匹も取るんですよ。最近ではもうおかげで、そのねずみがコトっともいわせんごとなた。家内がいいよりました。「本当に大坪の家は足にめぐりがあるといわれるが、こげんしてから、そのやってくる猫まで足が悪い」といってから、前にあの、他所におりました猫も足が悪かったです。だから、だんだんおかげを頂きましてからきれいに、洗ってやったり、それから足のほうもおかげを頂いてから。
 今はもう、家族の一員のようにしてから、その皆から愛されておるんです。もう子供がこの頃旅行にいってからもう、帰りにはもうねずみにまで、お土産を買ってくるぐらいにかわいがっておるんです。ね。もう本当に私は、その猫が嫌いであり、まあ、申しますなら、側にでもよってくるなら、蹴たくりたいごと嫌いな猫がです、この頃だんだん、好きにこそならんけれどもです、ね。
 なんとはなしに、この猫のおかげでといったようなのがです、心の中に感じられるのであり、もう部屋にでも入ってくるなら、私けたたましやかましかったのですけれども、この頃、言わんですむようになっておるということですね。私高橋正雄先生の難しいお言葉はそういうようなことだと思うのです。私と猫との係わり合いにおいてです、ね、関係において、どういう結果になってきておるかというとです、ね、今までネズミ捕りに難儀をしておったその難儀が、無くなっていきよるよういうことなんです。
 また、難儀が、生じ、深い関係において生じてくるかもしれません。それは、難儀が生じてきたにしても、無くなっていくにしてもです、それは、結局神様に頂くものだということです。ね。結局、んなら、分かり易く申しますとですね、いわゆる、神様に頂いた猫だ、神様がここにわざわざ、ねずみに難儀をしておるからわざわざ神様がどこからともなしに、猫を引き寄せてくださった。
 しかも真っ黒に汚れておる、しかも足はひきずるような、汚らしい猫だったけれどもです、そういうような猫のおかげで、現在私のところでは猫に、あぁその、ねずみに難儀をするといったようなことはないということ。この頃からその猫が、2階の控えの三畳のほうに、で、少し畳を汚しておるのです。家内がとっても怒っているんですけれども、「それ、お母さんちょっと待て待て、猫を怒る前にね、考えなければいけないぞと、今まではねずみにその、色々難儀をかけられておった。
 ところがねずみの難儀がなくなったら、猫の難儀をかけるようになった。これはそこんにきを愈々考えなければ、おかしいぞ」というて話したことです。ね、猫がおるのが当たり前のようになってきたからではないかと私が申します。ね。確かにそうなんです。もうそれこそ長女がまあ、そのご神飯時に起きてきておりますけれどももうそれは、もうどんなに綺麗にかたずけておっても、鼠のためにもう一杯荒らされてしまっておる所が、信心になっておるときだけはそれがなかったと。言うております。
 ところがです最近ではです、こちらが信心じゃなしに休ませて頂いた時にはね、ねずみが、その騒動はいたしておりませんけれども、猫が、ひっちらかしておるち。もう本当に様々なその事をです、猫との関係において分からせて頂くのであり、おかげを頂けるであり、または、被害を蒙らなければならないのであるということなんです。ね、そこで皆さん一つ、ただ今高橋正雄先生の、その手紙の冒頭にあります、その事をよく一つ皆さんの頭で、もういっぺん考えて頂きたいと思うのです。
 「物はみな関係において存在するのであり、ことは全て関係によって展開するのである」ということ。だからその関係そのものを大事にしなければならないと言う事なのです。私は今日そのことを思わせて頂きましてね、今日は一つ徹底、その事においてその一つ大事にさせてもらおう、お礼を申させてもらおう、しかもそれは神様が下さったんだと思うたらです、お礼を申しあげねば相済まんです( ? )病気をしておるなら病気という私というものの、関係においてです。
 何のために神様が病気をくださったのか、ということ。嫌で嫌でたまらない、嫌いで嫌いでたまらなかった猫がです、足蹴りしたいごたる気持の猫がです、この頃だんだんかわいらしゅう見えてきた。いわゆる、神様が下さったものとして大事にさせて頂きたいというような心が私の心に頂いてきておるという事。ここに、私共の幸せの根源があると思うのです。今日は私、御霊様に礼拝を申し上げよる時にです、家内の兄がもう亡くなりまして、14,5年になりますでしょうか。
 もう私はここに一回参りました事がある。それからあちらの奈良のほうに参りましてから、2回しかあった事がないのです、その頃はもう大変真面目になっておりましたけれども、それはもうそれはもうもう放蕩の限りを尽くしたんですね。ね。親が残しておってくれる作っておってくれる財産、という財産をもう本当湯水のようにつこうてしまう。そして親であろうが妹達であろうが、ですもう本当になんて言うでしょうかね、
 もう言葉に現せないような、それが本当の肉親の兄だろうか、肉親の親子であろうかと言った様な、あ、私し話を聞かせて頂ただけですけれども、そんなに感じるような兄だった。終戦後、おかげを頂きましてから、大変人間が変わった。真面目にもういわば勘当同様であった親とも子ともいわんといったような、その関係にあったのですけれどもです、やっぱり、一人息子であり、母がやっぱり兄の所に帰りました。
 引き揚げてかいります時には。兄もまたそれを大変喜んでその受けてくれると言った様なおかげの中に、亡くなり14,5年前に亡くなりましたですけれども、もうその兄のおかげで私達が苦労をするとこう家内たちは言うております。今日よくよく考えさせてもらいよったら、このお兄さんがおってくれたおかげでです、これは、私との関係、家内と出来ておるということなんですよ。
 とても兄がいなかったら、釜山あたりまでも、又、北京あたりまでもやってこなかったと私は思うのですね。してみると、その兄さんのおかげということが分かって来たんですよ。私はその事を御霊様に真からお礼を申させて頂きよったらですね。もうなんともうしましょうかね、その今まで死んでおったものが生きあがるような喜びを、御霊様を見せて下さったですよね。信心とは一切を生かすことである。
 どんな関係にありましてもです、その関係が生きてくる、有り難い意味合いにおいて生きてくる時にです、ね、天地みな喜びに、もって私に答えて下さる。という事になるのですよ。ね、私のためにその、商売敵がです、私のためにはとにかく皮肉にばっかりなさっておった人がです、いわばそういう猫ではないですけれども、言わば面見苦しいと思っておったその人がです、そういう関係においてという事が分かってまいります時に、お礼を申しあげねばならんという事が皆さん分かってくるでしょう。ね。
 そこを分かった時にです、私共は神様がそれを分かってくれたかというて、喜んで下さる。その喜びがおかげになってこないはずはないです。ね。どうしてこういうようなというんじゃないです。神様がこうして分からせて下さろうとしておるのです。言うならば、神様が下さるのです。神様が下さったものをですありがたく押し頂く思いで頂かなかったら、いよいよ神様に対して相済まんことになるでしょう。
 その私共は本当に難儀な事だ、困った事だと自分というものだけを中心に考える処にです、ね、自分の関係の悪か物は関係をたっていこうとするその、働きすらするんですね。もう、こういうものならおらんならよかろう、こういうこつはなかったらよかろうと言った様にです、所がその関係というものは、決してきれるものではないと言う事。ですからその関係によって繋がっている一切の事柄がです。
 物がですそれが有難いという事において、展開していく。高橋正雄先生のお言葉ではないですけれども。有り難い意味合いをもってこれが展開をしていくという事がです、また、そうして行く事が信心だという事が分かるでしょう。ね。もう、本当に猫ばっかりは私は、虫が好かん。例えばその、思うておったその猫がです、虫が好かんと思うておったのが、虫が好かんのじゃないのであると言うことです。
 そこで分からせて頂いた事です、神様が下さったものであるということがです。神様がここに猫を導いて下さったんだということ。そこまで分からせて頂く時にその猫が、まだ好きにこそならんけれども、私の心の中にですね、身震いするほど嫌いであったというものもなくなって、楽になってきておるという事。そしてその猫のおかげです、鼠にしてやられると言った様な難儀がですなくなっておるということです。
 ここのところを皆さんよく考えて、信心をさせて頂かなければならんという事ですね。まあ、いうなら関係において生じ、事はみな、関係において展開してくるという高橋正雄先生のお言葉をです、私が申しました意味合いをもってです、分かったらわかるでしょ。ね。昔のことわざの中にもね、「下さるものは夏もおこそで」という言葉があります。ね。夏に着物はいらんのだけれど、ね、下さるものであるならば、押し頂いていただくという意味なんでしょうね。
 私共の信心をさせて頂くものの態度としてです、神様が下さるものならば、いらん物はいらんというのでは、いや、むしろ元気な心でです、いや、ありがたく受ける合掌した心でです、受けて行くと言うことがです神様の喜んで下さることであり、その関係において、また私共の上におかげが展開してくるという事を思わなければなりません。ね、そのおかげが展開してくるそれを差別するような向こうに押しやるような事を沢山しておるのではないかと思いますですね。
   おかげを頂きますように。